tzdata の 1887 年以前の日本標準時子午線が間違っている話

今朝、こういう話を見かけた。

tzdata (tz database) というのは、世界各地域の標準時(タイムゾーン)の情報を収録したデータファイルで、様々な OS やライブラリで利用されている。例えば、Unix 系 OS で環境変数 TZ に適当な地域を設定すると date コマンドが適切な時刻を表示してくれるのは、この tzdata を使っているおかげ。

$ TZ=UTC date
2018年 10月 12日 金曜日 03:00:00 JST
$ TZ=Asia/Tokyo date
2018年 10月 12日 金曜日 12:00:00 JST

この問題は以前から指摘されていたようで、例えばきしださんの 2015 年の記事など。この記事でも書かれているように、tzdata は Java API でも使われているので当然影響を受ける。

d.hatena.ne.jp

そこで思い出したんだけど、この天守台、正しくは旧江戸城天守台に、僕はつい最近行ってきたばかりだった。

奇しくもオリンピックに伴うサマータイム導入(つまり、標準時をいじるという話である)に反対するシンポジウムを聴講した9月2日の午後、「俺、大手町サラリーマンのくせに目の前の皇居に行ったことがないなー」ということに気づき、会場の永田町から国会議事堂を経由してテクテクと皇居東御苑へと通じる大手門へと向かったのだった。

わりと外国人観光客に人気のスポットらしく、また都会のオアシスとしてもなかなか良いロケーションだった。あとポケストップが大量にある(重要。これで、入り口の荷物検査とか諸々の面倒がなければ気軽に散歩に来れるんだけどなぁ(無理。

ところで、この天守「台」というのはちょっと奇妙なネーミングだと思わないだろうか。天守「閣」ではないのだ。普通に考えると「将軍家の居城だった旧江戸城にはさぞ立派な天守閣があったのでは?」となるだろうが、実は江戸城天守閣が存在したのは江戸時代の初期まで。何があったかというと、

まぁ、ツイートでは茶化して書いているけど、いちおう以下のようなまともな理由があるようだ。この保科雅之は江戸の町の防災性の向上に尽力した人物で、火除け用地として上野広小路を作ったのも彼なんだそうだ。

この寛永天守は、明暦3年(1657)の火災で焼け落ち、翌年に加賀藩前田家の普請により高さ18mの花崗岩でできた天守台が築かれます。これが現在残る天守台ですが、四代将軍家綱の叔父である保科正之の戦国の世の象徴である天守閣は時代遅れであり、城下の復興を優先すべきであるとの提言により、以後天守閣は再建されることはありませんでした。現在、東西約41m、南北約45m、高さ11mの石積みが残っています。

天守台 - 千代田区観光協会

その後、明治に入ってから、内務省地理局測量課がこの天守台を測量の原点と定めて三角点などが置かれたらしい。

現在はホテルオークラとなっている旧溜池葵町に置かれていた内務省地理局は、1882(明治15)年に江戸城本丸に移転した。天文台天守台(天守閣の土台)に設けられ、この新しい天文台を経緯度の零点とした。江戸城天守台は築後200年で、堅牢・安定な地盤が観測の適地と見込まれたのである。

本初子午線をゆく Part II 東京編

しかし、「東京天守台を初度とする」というお触れが出た直後、国際子午線会議の結果を受けて「東経135度を子午線とする」という勅令が出て、明石を通る現在の子午線 (GMT+9) に切り替わってしまった。だから、公式に +09:19:01 だった期間はかなり短い。この辺の細かい経緯については国立天文台の Wiki に詳しい。

というわけで、イギリス旅行の際にわざわざグリニッジ子午線を踏みに行く程度には子午線マニア(?)を自認していたわりには、足下のこういう歴史を見過ごしていたとは不覚だったなぁ、というお話でした。

なお、本題の tzdata の方ですが、修正には何かしらエビデンスがあった方がいいようなので、何かご存知の方がいらっしゃったら以下のスレッドにコメントして頂けると良いかと思います。